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デザイナー藤田重信のこだわり

金属活字の遺伝子をデジタルフォントに残すということ

フォントワークス 書体デザイナー/藤田重信

「子どもの頃は勉強が面白くなく、好きなことにしか集中できなかった」と語る藤田。今、藤田がデザインする「筑紫書体」は、明朝体、ゴシック体、丸ゴシック体という書体ジャンルを超えて、まさに藤田ワールドと言えるようなラインナップを構成しています。レタリングで自分が認められたと感じた学生時代、そしてファッションと石井明朝に心を奪われた写研時代を経て現在へ。さらに筑紫書体のデザインにおけるこだわりや思いについて聞きました。

石井明朝は情感が濃すぎる、本蘭明朝は都会的!?

デザイン科のある高校に入って、自分よりセンスのある人、絵が上手い人がたくさんいるんだ、と落ち込んでいたとき、初めて「あれ? 自分もけっこうイケルじゃん」と思ったのがレタリングの授業でした。それを見ていた教科の先生が将来の見えない僕に「写研に就職したら?」とアドバイスをくれて、そのまま試験などを経て就職したのが昭和50年。僕が高校を卒業してすぐのときです。

入社した当時は「写研はここから始まったんだ」と石井明朝を模写したりもしましたね。それでも僕は、石井明朝に対してあまり良い印象を持ってなかった。多分、田舎から出てきた20歳前後の青年にとって、石井明朝は情感が濃すぎたんだと思います(笑) 田舎ならではの濃厚な付き合いとか風習──そういうものが石井明朝から感じられたんですね。一方、僕が入社した頃に登場した本蘭明朝は都会的でね。ドライな印象を強く受けて、当時は断然“本蘭明朝派”でした。

ただね、文字に対して今ほど情熱があったかというとそうでもありません。もちろん仕事は楽しくて、仕事中はアッという間に時間が経っていきました。でも当時の僕の情熱はファッションに向けられていたんです。それこそあらゆる本や雑誌を読み込んで、ファッションの知識を得ることに夢中になっていました。会社では仕事、プライベートではファッションに夢中、という状態が10年くらい続いたとき、世の中では石井明朝を使った広告コピーが溢れるように登場していたんです。

トラッドは常に新鮮なものにアップデートしなければ売れない

20代の頃は情感が強すぎると思ってあまり好きではなかった石井明朝ですが、30代になると、「これはたまらないな」と思うようになってきました。石井明朝って「たまらなく良い形をしているじゃないか」って。たとえば「そ」という文字は腰の低い和服美人。色気があったんですよ。逆に本蘭明朝を見てみたら、なんだか少しカクカクして見える。石井明朝の作例が増えたことで、なぜこの書体が愛されるのか、選ばれるかという理由も見えてきたんです。つまり、石井明朝は人や世代によって抵抗はあるかもしれないけど、文字を知っていくと底の知れない魅力があるんだと分かったんですね。それで、僕の情熱がガーッと石井明朝に向きました。

社会人になった頃、ファッションの世界──とくにトラッドと言われる洋服では、それまでの細身のボックス型シルエットから、ちょっとコンシャスなシルエットが流行るようになってきていました。トラディショナルとはつまり「伝統」ということですが、これまでのタータンチェックやヘリンボーンと言った伝統的な素材を使いながら、ニュートラでは新しいものを作る。「トラディショナルは、そのときどきで新鮮に見せていかないと、続かない、売れない、商売にならない」と思える変化でした。

その目で石井明朝を見ると、「そうだ!明朝体ってすごいトラディショナルじゃないか!」と。好きなもの同士の点と点が一本の線でつながったんですね。とはいえ、新たな明朝体が作りたいと思ってもすでに写研には立派なものがたくさんあったから難しい。そんなとき、フォントワークスで書体デザインができる人を探しているという話があったんです。面接で話したのは「とにかく明朝体──良い明朝体が作りたい」ということだけ。その思いも通じてフォントワークスに入社しました。

今思えば写研時代の22~3年は下積みの時代。1998年にフォントワークスに入社して、ようやくこれで自分が考える書体を作るチャンスに巡り会ったという感じでした。

「かな」という文字の魅力と難しさ

会社の意向として、「写研で言えば本蘭明朝系のものが欲しい」ということもあって作り出したけど、これが無残でね。一度作って2か月後に見るとまったくダメ。漢字はそれなりにキャリアもあるから作れるけど、「かな」がまったくできないんです。とくにオーソドックスな明朝体の「かな」というものは、そんじょそこらでできるようなものではない。そうしているうちに3年経って、見出し系も考えなくちゃという段階になりました。そこで、これまで築地活字からの流派で考えていたけれど、見出し用明朝は秀英系初号で勉強させてもらおうと捉え直し、出来上がったのが「筑紫A見出ミン」です。これでかなり「かな」の構造を勉強できて、筑紫明朝Lにもフィードバックすることができました。

筑紫A見出ミン制作以前は、「自分+築地系」しか引き出しがなかったものに「秀英系」が混ざったことで、筑紫明朝Lにもすっきり感を出すことができました。ようやくいろいろな人にヒアリングできるところまで辿り着いて、戸田ツトムさん、鈴木一誌さんが出そうとしている雑誌の書体に使ってもらうに至ったんです。

筑紫明朝Lを出したときは、写研の明朝を知っている9割の方に「DTPになって、ようやくこういう明朝体が出てきたか」と言っていただけました。多分、筑紫明朝Lで組版をすると、均質な印象を出せたからでしょう。漢字は“四角い箱”の中に作りますが、筑紫明朝Lは、濃度が濃かったり薄かったりするところを均質にして、天地の絞りは効かせていません。

一方、左右はちょっとだけ絞っています。逆に「かな」は、はっきりとメリハリを出しています。僕自身、もともと「ひらがなには直線があってはいけない」という考え方でやっているので、ごつごつさせない、曲線が命なんです。原稿用紙のマス目にピッタリ合わせているというより、書道半紙にすーっと文字を書いていくような、マス目にはまらない文字が目標でした。

金属活字の手触りを取り込んでいく筑紫書体

筑紫明朝を出したときは、DTPの主要フォントメーカーが自社でもっていた代表的な活字をデジタル化して揃ったという段階でした。その後に続いたのが、築地五号仮名の復刻・翻刻版制作ですね。さまざまなメーカーがオールドタイプの「かなフォント」を発表し始めていました。

すなわち、定番のモダン系明朝が出揃い、オールドな明朝が芽生え始めていた頃だったんです。このタイミングで筑紫明朝が出たので、新鮮に思われたのはあったと思います。オールドタイプのフォントというものは、(僕自身がそうであったように)熱烈なファンが生まれやすいんです。だから筑紫明朝は、少しオールドに振って着地しようという試みがありました。でもやり過ぎるとコンセプトが変わってしまい、会社も認めてくれないかもしれない。そのさじ加減は、最初から考えていましたね。

もうひとつ、筑紫明朝の特徴になっているのが、横画の打ち込みにインク溜まりを再現して、金属活字の滲みも取り入れたことです。鈴木一誌さんには、「写植時代のぼけも取り込んでいるね」と言われました。だから筑紫明朝は文字をどんなに大きくしても、始筆や終筆部分でバサッと切ったような機械的なエッジは一切ありません。振り返ってみれば、当時の明朝体はモダンなものばかり。筑紫明朝Lは、一目見たときは古いタイプだったけど品質は最先端。つまり、“古くて新しい”が混ざったものだったんです。

戸田ツトムさんは、「筑紫明朝Lは、電算写植で踏襲できなかった金属活字の良さが踏襲されている」と仰った。僕の中に、印刷で見る金属活字の良さが残像として残っていて、それが筑紫明朝Lを設計するときの遺伝子のようなものとして現れたんだと思います。

「こういう書体があったら面白い」から新書体が生まれる

筑紫明朝L、筑紫A・B見出ミンを出した後で筑紫オールド明朝を作りました。今考えると、この順番が良かった。最初に筑紫オールド明朝なってやっていたら、すごく難しかったと思います。当時はベジェ曲線も今のようには扱えてなかったから、2書体続けてやったことで“ベジェ曲線の魔術師”と言われるくらいは腕が上がったかな(笑) 今では、頭の中に浮かんだものをそのままモニタ上に再現することができます。

でも筑紫オールドを作った後は、「やりたいことはやったな」という感覚でした。もともとオールドタイプの明朝体が作りたいと思っていたわけですからね。じゃあ次は何を作ろうかと思ったとき、「こういう書体があるときっと面白い」と僕が思う書体を作ろうと、筑紫アンティーク、筑紫ヴィンテージ、筑紫Q明朝に繋がっています。

僕自身は、組版については素人同然なので、筑紫書体をどう使われているのかについての善し悪しは判断することはできません。ただただ、使っていただいていることが嬉しいんです。最初の忘れられぬ経験で、装幀家の方に筑紫明朝を使って戴いた本を見せて戴いたとき「これで良かったでしょうか?」と不安そうに私の前で仰られていて……。もう“じーん”ときてしまい、泣きました。デザイナーの方が書体を選び、組版を行い印刷物になるということは、それまでにいろいろな思いがあるでしょう? そこまで神経を使って、筑紫書体を選んでいただいていることに、いつも感動しています。